東方イスラーム

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    東方イスラーム

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    トルコマーンと東方イスラーム世界
    セルジューク朝のもと、政治・軍事をテュルク系などの遊牧民が担い、行政・文化をペルシア系の者が担う東方イスラーム世界が現出した。
    13世紀にはモンゴル帝国がイラン高原を征服しイルハン朝が成立する。
    この時代、遊牧民の機動力に基づく軍事的優位性は圧倒的であった。
    こうした勢力は権力中枢所在地に広大な牧草地を必要としており、この時代のイラン高原の歴史は、東方のホラーサーンやマーワラーアンナフル、あるいは西方のアゼルバイジャンから東アナトリアに基盤を置く勢力による角逐の歴史であったといえる。
    イルハン朝崩壊後にはマーワーランナフルからティムールが大帝国を築く。
    その勢力が弱まると、西方の黒羊朝、白羊朝東方のティムール朝が対峙する状況となる。
    やがて16世紀への転換期にアゼルバイジャン方面からサファヴィー朝(1502年 - 1736年)がイラン高原を統一する。
    サファヴィー朝はシーア派を国教とし、ここにイランのシーア化がはじまる。
    中期のシャー・アッバース1世は都をイラン高原中央のイスファハーンに移し全盛の時代を迎える。
    サファヴィー朝崩壊後も遊牧系のナーディル・シャーのアフシャール朝、カリーム・ハーンのザンド朝がそれぞれ短期間イランを支配し、同じくトルコマーン系のガージャール朝(1795年 - 1925年)が成立する。
    遊牧勢力の優位性が揺らぐ中で、東方イスラーム世界もまたその変容を余儀なくされる。
    サファヴィー朝中期ころから、イラン世界は縮小をはじめ、マーワラーアンナフルはトルキスタンとしてイラン世界から離れ、そしてドッラーニー朝以降ホラーサーンもまたアフガニスタンとイラン辺境部に二分される。
    さらに西方も東アナトリア・イラク方面もオスマン帝国との間に完全な国境線が敷かれ、ここに東方イスラーム世界は終焉を迎える。
    ガージャール朝はうち続く戦敗によってヘラートやカフカズを失い、今日ある姿での国民国家「イラン」の原像が立ち現れてくることになる。


    ホラズム・シャー朝

    セルジューク朝の分裂とホラズム・シャー朝
    詳細は「セルジューク朝」、「ホラズム・シャー朝」をそれぞれ参照
    セルジューク朝はマリク・シャーの没後、遊牧的分割相続の影響もあり分裂がはじまる。
    イラン高原方面を治めたのが、宗家大セルジューク朝であるが、シリア、イラク、ケルマーン、ルームなどの各セルジューク朝に分立し、各セルジューク朝間およびその内部において抗争が繰り返され、政治的統一は失われてゆく。
    この間にもテュルク族の流入は続き、セルジューク朝は彼らをアナトリアなど辺境部に送り出しており、これがアナトリアのテュルク化のきっかけとなっている。
    1141年に大セルジューク朝のスルターン・サンジャルがホラーサーン方面でカラキタイに敗れ1157年に亡くなると、大セルジューク朝は決定的な混乱に陥る。
    このときアラル海東南方に独自勢力を築きつつあったホラズム・シャー朝はテキシュのもとで内紛を克服、イラン高原へと進出し1197年、アッバース朝カリフからイラクからホラーサーンに至る支配権を認められた。
    アラル海北方出身の遊牧民カンクリ、キプチャクの軍事力を背景にホラズム・シャー朝は次代アラーウッディーン・ムハンマドのもと13世紀初に最盛期を迎えた。
    しかし1219年、チンギス・ハーン率いるモンゴル帝国軍が侵攻を開始、ホラズム・シャー朝は決定的な敗北を喫し、西方へ移りアゼルバイジャン地方を根拠とするようになるが、1230年前後に周辺勢力と対立に敗れた。


    モンゴル帝国下のイラン
    モンゴル帝国下のイラン
    詳細は「フレグ・ウルス」を参照
    モンゴル帝国軍はチンギス・ハーンのもとではホラーサーン中部までの侵攻し、のちにアラーウッディーン・ムハンマドおよびジャラールッディーン追撃のためにアザルバイジャン地方まで進撃した。
    チンギス在世中にマーワラーアンナフルやヘラート周辺をはじめとするアフガニスタン地域が早くにマフムード・ヤラワチらによって復興が開始され行政組織が整備されたのに対して、ホラーサーン以西は長らく放置されたままであった。
    1230年になってモンゴル皇帝オゴデイは、イラン高原へ帰還したジャラールッディーンの討伐のためチョルマグン率いるイラン駐留軍(タンマチ)を中央アジアから派遣してイラン中・西部の掌握を確実にし、さらにルーム・セルジューク朝、アルメニア王国、グルジア王国、アッバース朝、ディヤール・バクル、ジャズィーラ地方の諸政権などに対し牽制をはかった。
    この時、これらアゼルバイジャン方面軍への兵站を任されていたウルゲンチのバスカーク(ダルガチ)であったチン・テムルをホラーサーンへ入府させ、ホラーサーンおよびマーザンダラーン地方の行政組織を整備させた。
    これがモンゴル帝国によるいわゆるイラン・ホラーサーン総督府のはじまりである。
    これ以降オゴデイ治世時代にホラーサーン総督府はその統括地域をイラーク・アジャミー、ヘラート周辺のアフガニスタン地方、アゼルバイジャン地方へと順次拡大した。
    1241年にオゴデイが没し第六皇后ドレゲネ・ハトゥンによる摂政時代にはモースル、ディヤールバクル方面まで権限を拡大した。
    1240年頃にはバイジュ・ノヤン率いるイラン駐留軍はキョセ・タグの戦いなどでルーム・セルジューク朝やアルメニア王国、グルジア王国などイラン北西部の諸政権を軍事的に屈服させ、1243年にはホラーサーン総督アルグン・アカがアゼルバイジャン地方の州都タブリーズに入府し、イラン全域の統治が可能となった。
    この間にもルーム・セルジューク朝やアルメニア王国、モースルのバドルッディーン・ルウルウなどがアルグンを仲介としてモンゴル軍人による誅求をカラコルムのモンゴル帝国中央に訴えるようになった。
    このアルグンの時代にホラーサーン総督府は、ルーム・セルジューク朝などのムスリム政権だけでなく、グルジア王国やキリキアの小アルメニア王国など、モンゴル帝国に帰順した西方地域の土着王侯と帝国中央への仲介の役割を積極的に果たした。
    1251年にモンケがモンゴル帝国の第四代皇帝(カアン)に即位すると、オゴデイ時代の行政区分を引継いで、帝国を燕京を中心とする華北、ビシュバリクを中心とするマーワラーアンナフル・中央アジア、アムダリヤ川からシリア方面までの三つの巨大行政区を定めた。
    最後のものがアルグン・アカが監督していたイラン・ホラーサーン総督府の区分であり、その担当領域は「アームー(川)の岸辺からミスル(エジプト)の境まで」と称された。
    『元史』にみえる「阿母河等処行尚書省」がこれにあたる。
    1253年1月、モンケはオノン川河源で開催したクリルタイの決議により、西方のニザール派やアッバース朝などを討滅すべくフレグ率いる本格的な遠征軍をアム川以西の諸国へと派遣した。
    フレグがイランに入ったのが1256年で、彼はアルグンからホラーサーン総督府の権限を接収、イランに対する行政権の全てを持つことになった。
    同年アラムートのニザール派を屈服させ、1258年、バグダードに入城、アッバース朝を滅ぼしカリフ位は空位となったのである。
    1260年にはシリア方面に進出するが、大カアン・モンケの死去により引き返し、大カアン位を巡る争いを見てイランに自立しアゼルバイジャンのタブリーズを中心にイルハン朝を開いた。
       

    モンゴル帝国下のイラン2
    イルハン朝においても軍事・政治を行う遊牧民、行政を担うペルシア人という伝統的構造は変わらず、やがてモンゴル人とテュルク系遊牧民の混淆が進み、政権自体もイスラーム化してゆく。
    1295年、ガザン・ハンはムスリムとなり、その弟オルジェイトゥ・ムハンマド・フダーバンダの代には、ペルシア文化がイルハン朝のもとさまざまな成果を生み出す。
    代表的なものに宰相ラシードゥッディーンの『集史』や今日に伝わる多くのミニアチュールを用いた写本、世界遺産ともなっている首都ソルターニーイェなどがある。
    またイルハン朝の時代は13世紀後半の世界的経済活性期にあたっており、文化的繁栄の背景には大元ウルスを中心とするモンゴル帝国による政治的安定を前提とした交易の活発化・地方特産品の開発を通じた地方産品の増加といった経済的状況があった。
    ガザンの治世から中央政権による強力な軍政や駅逓制度(ジャムチ)、財政制度が確立・機能されると、やがて農地開拓や商工業など各地で安定的な経済発展が促された。
    モンゴル王侯や財務官僚、往昔の聖人たちなどの墓廟建築を中心とするワクフによる巨大な寄進複合施設の建設が流行し、これに附随したモスクやマドラサ、バザール、キャラヴァンサライなども各地で建設された。
    後の時代に同様の寄進複合施設がティムール朝、オスマン朝などでも多数建設されている。
    イルハン朝時代は大元ウルスと同じく「歴史叙述の時代」でもある。
    『世界征服者史』をはじめとして『集史』、『ワッサーフ史』、『選史』といった通史や「世界史」のジャンルの作品がペルシア語で多く執筆され、『ヘラート史記』や『シーラーズの書』、ルーム・セルジューク朝史である『尊厳なる命令』などの地方史も多く書かれた。
    また韻文学としては『ワッサーフ史』を筆頭にイルハン朝末期の『ガザンの書』や『シャーハンシャーの書』、『チンギスの書』などフェルドウスィーの『王書』に倣った詩文形式による歴史叙述のジャンルが開拓された。
    『集史』にはじまり『チンギスの書』などテュルク・モンゴル的な族祖伝承を、人祖アーダムに遡るイスラーム世界の伝統的な歴史観に組み込ませた歴史像をもつ作品群も現れ、後世のオスマン朝やティムール朝、サファヴィー朝、さらにジョチ・ウルス系の諸政権への影響は甚だ大きい。
    イルハン朝の領域は『集史』において「アームー川の岸辺からミスルの境域まで」と称されたように広大な地域に及んだ。
    これは丁度サーサーン朝の支配地域とほぼ重なる規模であり、14世紀からこのイルハン朝の支配領域を指して「イランの地」の意味である「イーラーン・ザミーン」という地域的な呼称が登場する。
    14世紀後半にはいり、ジョチ・ウルスとマムルーク朝の同盟による南北からの圧力、さらには繰り返される内紛によって衰退していく。
    1335年、オルジェイトゥの子アブー・サイードが後継者を得ないまま病没するとついに中央政権は瓦解し、各地の諸族が独自にチンギス裔をたてて分立する状況となる。
    やがて傀儡のハーンも徐々に消えてゆくことになる。
    これら地方政権で有力だったのはバグダードからアゼルバイジャンにかけての西方にジャライル朝、アナトリア東部からメソポタミア平原北部の黒羊朝および白羊朝、東方には南からシーラーズを中心としたファールスのムザッファル朝、ヘラートのクルト朝、サブサヴァールのサルバダール運動などである。

    人妻
    ティムールの大帝国と東西並立
    詳細は「ティムール朝」、「白羊朝」をそれぞれ参照
    14世紀末にこのようなイラン高原を一気に征服したのがティムール朝である。
    ティムールはテュルク化したモンゴル出身でチャガタイ・ウルスの内紛に乗じて頭角を現した。
    マーワラーアンナフルのサマルカンドを中心として、瞬く間にイラン高原からシリア、アナトリアに至る大帝国を築きあげた。
    しかし1405年、ティムールが大明帝国攻撃の途上に没すると内紛が発生、東方では三男シャー・ルフがヘラートを本拠に権力を確立する一方、帝国西半は次々と自立し、アナトリア東部を本拠とするカラ・コユンルー部族連合による黒羊朝(カラ・コユンルー朝)が成立した。
    シャー・ルフは黒羊朝に対して数度の遠征を行い、宗主権を獲得するものの完全に併呑することはできなかった。
    1447年、シャー・ルフが没するとティムール朝はサマルカンド政権とヘラート政権に分立、互いに抗争を繰り返すようになる。
    この頃、西方でもバーヤンドル部族連合を中心とする白羊朝(アク・コユンルー朝)が成立、1468年前後に黒羊朝を駆逐した。
    白羊朝のウズン・ハサンはティムール朝を破ってイラン高原東部まで勢力を伸ばすが、1473年、オスマン帝国のメフメト2世に破れ白羊朝の征服活動は停止する。
    1480年代、ヤアクーブの治世下では比較的安定していた白羊朝もその死後に内紛・分裂に陥った。
    ティムール没後のイラン世界も政治的に安定した時代ではなかったが、サマルカンドやヘラートなどでの建築活動や、あるいは宮廷での文学作品を数多く生み出した時代であった。
    代表的なものにサマルカンドのウルグベグ・マドラサがある。
    またスーフィー・タリーカの流行も著しかった。
    ナクシュバンディー教団やニアマトゥッラー教団がその代表的なものである。
    白羊朝は1508年、新興のサファヴィー朝に滅ぼされた。
    東方では北方にジョチ・ウルスの余裔であるウズベクのシャイバーニー朝が成立して南下をはじめ、1501年にサマルカンド政権、1507年にヘラート政権が滅んだ。
    サマルカンド政権の王子バーブルは再興を試みるも失敗し、アフガニスタンに退いたのちやがてインドにムガル朝を開くことになる。
    こうして東西分立の時代を終え、16世紀、イラン高原はサファヴィー朝による統一的な歴史を歩み始める。
    人妻にも権利は存在します。


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