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エラム
中エラム時代
エラムに再び強力な政治的統合体が現れるのは紀元前16世紀頃から紀元前15世紀頃にかけて台頭したウンタシュ・ナピリシャ王や、「アンシャンとスサの王」を称したイゲ・ハルキ王の時代であり、彼の時代以降を中エラム時代と称する。 イゲ・ハルキは古エラム時代に侵入したフルリ人と何らかの関係があると考えられている。 イゲ・ハルキ朝の王は10人、またはそれ以上いると考えられるが、彼らとバビロニアとの交渉が記録に残っている。 紀元前1320年には、一時カッシート朝(バビロン第3王朝)の王クリガルズ2世に服属したが、紀元前1230年頃には、同王朝のカシュティリアシュ4世を破り、更にキデン・フトゥラン王はアッシリアの圧迫によって弱体化したカッシート朝に二度にわたる攻撃をかけてこれを滅亡させた。 しかし間もなくアッシリア王トゥクルティ・ニヌルタ1世と戦って破れ、バビロニアから駆逐された。 紀元前13世紀末から紀元前12世紀にかけて新たにシュトルク朝がおこり、バビロニアに再び進出を図った。 シュトルク・ナフンテ1世は、バビロンを陥落させてバビロニアを支配下におくことに成功した。 マルドゥク神像を略奪した他、ハンムラビ法典の石碑もこの時スサへ持ち帰り、後に現代の考古学者によってスサで発見されることになる。 アッシリアの政治混乱ともあいまって、エラムはこの時期オリエントで最も強大な国家となっていった。 だが、間もなくバビロニアに新たに勃興したイシン第2王朝(バビロン第4王朝)の英王ネブカドネザル1世によってエラム軍は打ち破られ、スサを占領されるとともにマルドゥク神像を奪還された。 以後300年にわたる弱体化と混乱の時代を迎えることになる。
エラムはこの時代、バビロニアから著しい文化的影響を受けた。 文書史料に楔形文字が多用された他、アッカド語を用いた記録も数多く残された。 バビロニア式の巨大なジッグラトも建築された。 ただし、エラム独自の相続制度は維持され、シュトルク朝もまた兄弟相続を基本としていた。
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新エラム時代
ネブカドネザル1世の攻撃以降300年にわたる記録の無い時代が続く。 僅かにバビロニアとアッシリアの戦いに際して、バビロニア王マルドゥク・バラシュ・イクビを助けて参加したことなどが記録されている。
こういった時代にようやく終止符が打たれ、エラムに新たな時代が訪れるのは紀元前8世紀頃のことである。 この頃新たにフンバンタラ朝が成立して、一応の安定が達成された。 当時急激に拡大していたアッシリアに対抗するために、エラムはバビロニアを熱心に支援した。 バビロニアは紀元前729年にティグラト・ピレセル3世によって征服されていたが、その後エラムの支援の元でメロダク・バルアダン2世がアッシリアに反乱を起こし自立していた。 アッシリア王サルゴン2世はメロダク・バルアダン2世を攻撃して再びバビロニアを征服したが、この時敗走したメロダク・バルアダン2世はエラムに逃げ込み、エラム人は彼を匿った。 そして、紀元前703年頃、再び彼をバビロニア王に付けてアッシリアから離反させることを試み一時成功した。 だが、センナケリブ王の遠征によってバビロニアは再併合された。
しかし尚もエラムはバビロニアの反乱勢力を支援して介入を続けた。 新たに王位についたフンマ・メナヌ3世は紀元前694年には、バビロニアの反乱を支援して、アッシリアの王子、アッシュール・ナディン・シュミを捕縛することに成功し、再びバビロニアを独立させた。 これは更なるセンナケリブ王の遠征を招き、一時的にはアッシリア軍に対抗したものの、最終的にバビロニアはアッシリアの支配下に入りバビロニアに対するエラムの影響力確保は失敗した。
その後もアッシリアとバビロニアを巡って争いを続けた。 アッシリア王アッシュールバニパルが、兄弟のシャマシュ・シュム・ウキンと兄弟戦争を戦った際には、シャマシュ・シュム・ウキンを支援して再びバビロニアを離反させることを狙った。 しかしこの戦いでシャマシュ・シュム・ウキンは敗死し、アッシュールバニパルはエラムに対して本格的な攻撃に乗り出した。 エラム王テウマンはテュル・テュバの戦いでアッシリア軍に敗北し、紀元前646年スサは多大な被害を受けた。 これによって大国としてのエラムの歴史も終わりを告げた。 テウマンの後継者フンマ・ハルダシュ3世は尚もアッシリアに対抗を続けたが、紀元前640年にスサはアッシリアに占領されるに至った。
しかしながら、アッシリアは国内の諸部族の抵抗に悩まされており、スサ占領も長くは続かず、しばらくしてエラム王国は復活した。 ただ最早往時の権勢を示すことはなく、イラン高原の殆どはメディアの支配下に置かれ、エラム王国の支配地域はスサを中心とするスシアナ地方に限られた。 539年にスサはキュロス大王率いるアケメネス朝ペルシアの支配下に置かれ、ここにエラム王国は歴史から姿を消した。 しかし、イラン高原において最も高い文化を誇った集団の一つであったエラムの諸制度は、その後もアケメネス朝時代においても受け継がれ、行政語などとしてエラム語も使用され続けた。
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ペルシア帝国
ペルシア帝国(ペルシアていこく)とは、現在のイランを中心に成立していた歴史上の国家である。 アケメネス朝(ハカーマニシュ朝)がザーグロス山脈南部のパールサ地方(現在のファールス州一帯)から勃興して以来、イラン高原周辺を古典ギリシア語でペルシス ? Περσ?? / he Persis、ラテン語でペルシア Persia と呼ばれてきたことに由来する。 ペルシャ帝国とも呼び、パフラヴィー朝時代の1935年にイラン帝国と改称を諸外国に要請したが混乱が見られ、1959年にイランとペルシアは代替可能な名称と定めた。 一般的には古代の王朝、つまり古代ペルシア帝国を指し、中でもアケメネス朝とサーサーン朝を指すことが多い。
イラン高原周辺の君主の称号(君主号)は、古代にあっては古代ペルシア語で「王」を意味するフシャーヤティヤー χ??yaθiya- 、あるいはその上位称号で「諸王の王」を意味する χ??yaθiya χ??yaθiy?n?m などが用いられた。 サーサーン朝や7世紀以降のイスラーム時代からは、前者はその中期ペルシア語、近世ペルシア語形であるシャー Mlk/??h, ??? sh?h、後者はシャーハーン・シャー(シャーハンシャー;「シャーたちのシャー」の意味) Mlk'n Mlk/??h?n ??h, ??????? sh?han-sh?h という形で用いられて来た。 イルハン朝時代からティムール朝時代にかけて、パードシャーもシャーハンシャーと同格の称号として用いられるようになった。 シャーハンシャーやパードシャーは概念的に皇帝、帝王に近いが、日本語訳では特定の君主について欧米で the Great と呼ばれている慣習に基づいて大王、大帝と表記する場合もある。 パフレヴィー朝の君主などにその傾向が見られるが、「シャー・誰々」と「シャー」単独で呼ばれる場合もあるため、単に国王と表記されることも多い。
ペルシア人による王朝の国家だけではなくサファヴィー朝以後のペルシアを支配しシャーに戴冠したトルクメン系の王朝の国家もペルシア国家として扱われることが多い。 カージャール朝ではペルシア人による民族運動が盛んになっていた。
ゾロアスター教はアケメネス朝、アルサケス朝、サーサーン朝で信奉されていた。 イスラム教シーア派の一派十二イマーム派はブワイフ朝が信奉し、サファヴィー朝以降、国教となった。
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古代ペルシア帝国
アケメネス朝
キュロス2世により、メディア王国、リディア王国、新バビロニア王国を滅ぼし、新バビロニア王国により移住させられたユダヤ人を解放し、バビロン捕囚を終焉させた。 キュロス2世の息子カンビュセス2世(カンブジャ)により、エジプトを併合して、古代オリエント世界を統一した。 ダレイオス1世がペルシア戦争を起こしたが敗北した。 ダレイオス3世のときマケドニアのアレクサンドロスにより征服され滅亡した。
アルサケス朝
アルサケス朝は、アルシャク朝、パルティアとも呼び、古代中国では安息国と呼ぶ。 セレウコス朝シリアから独立し、アルサケス(アルシャク)により建国された。 ローマ帝国との抗争で、ローマ将軍のクラッススを戦死させた。
サーサーン朝
アルサケス朝と戦って勝利し、アルサケス朝の称号を引き継いだ。 ローマ帝国との抗争ではシャープール1世はヴァレリアヌスを捕虜にした。 東ローマ帝国との抗争ではホスロー1世はユスティニアヌス1世から賠償金を得た。 ホスロー1世は突厥と同盟を結び、サーサーン朝を圧迫していたエフタルを滅ぼした。 ヤズデギルド3世の時代にニハーヴァンドの戦いで正統カリフ時代のイスラム帝国に敗北して崩壊し、再起を目指したが滅亡した。
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イスラムペルシア帝国
ブワイフ朝
カスピ海南西岸内陸のダイラム地方から勃興した王朝。 ブーヤ朝とも。 アッバース朝イスラム帝国のバグダードに入城し、アッバース朝から大アミール(アミール・アル=ウマラー)の称号を獲得し、その後シャーハンシャーを名乗った。 イクター制を導入した。 セルジューク朝が台頭した後、セルジューク朝がバグダードを握り滅亡へと向かった。
サファヴィー朝
イスラム教シーア派の一派十二イマーム派を信奉するサファヴィー教団から勃興した王朝。 イルハン朝時代にイラン北西部のアルダビールを根拠地とした預言者ムハンマドの後裔サイイドのひとりサフィーユッディーンを始祖とするサファヴィー教団が、初代君主となる15世紀末の教主イスマーイール1世の時代にアルダビール周辺のテュルクメン系の遊牧諸部族からの信奉を受けてクズルバシュと呼ばれる軍事集団が形成され、軍事的・領土的に急拡大した。 十二イマーム派がイランの国教となる直接的端緒となった。 ブワイフ朝滅亡後、長い間イラン系の君主による王朝が現れず、使われていなかった君主号としてのシャーの称号を復活させた、とされる。 イスラム教スンナ派のオスマン帝国との抗争を繰り返した。 イスマーイールはオスマン帝国のセリム1世と戦い惨敗した。 第5代アッバース1世がカズヴィーンからイスファハーンに遷都し大幅な都市の拡張を行った。 アフシャール朝により滅亡した。
アフシャール朝
サファヴィー朝君主の摂政であったナーディル・シャーが、サファヴィー朝最後の君主シャー・アッバース3世の死によって同王朝が断絶したことにより、シャーを名乗って成立した王朝。 オスマン帝国を破って勢力を回復したがすぐに衰退し、カージャール朝に滅ぼされた。
カージャール朝
ザンド朝やアフシャール朝と争い、アフシャール朝を滅ぼし、トゥルクマーン系カージャール部族連合のアーカー・ムハンマド・ハーンが1796年、シャーとして戴冠した。 ロシア帝国との抗争で領土を減らし、イギリスからの圧力を受けるようになった。 ペルシア人の民族主義の高揚により、タバコ・ボイコット運動がおき、ペルシア立憲革命がおきた。 その後、1925年にレザー・パフラヴィーによりパフラヴィー朝が創設され、滅亡した。
パフラヴィー朝
1925年、レザー・パフラヴィーがカージャール朝を廃して創設し、1935年、国号をペルシアからイランに改称するように諸外国に要請したが混乱が見られ、1959年、研究者らの主張によりパフラヴィー2世がイランとペルシアは代替可能な名称と定めた。 1979年、ルーホッラー・ホメイニーによるイラン革命が勃発し、パフラヴィー2世がエジプトに亡命して滅亡。 イラン・イスラム共和国となった。
逆援助をすることは不可能です。
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