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イランの歴史
イランの歴史はイラン高原の古代文明から現在のイラン・イスラーム共和国に至るまで数千年に及ぶ。 こうした中でさまざまな王朝が興亡を繰り返し、イラン高原のみを領域としたものもあれば、アッバース朝やモンゴル帝国のような巨大な王朝もあった。 したがって「イランの歴史」を現在のイラン・イスラーム共和国領域に限定した地域史として記述するのはほとんど不可能である。 本項ではイラン高原を支配した諸勢力の歴史を中心に、その周辺域、特にマーワラーアンナフル、ホラーサーン地方、アゼルバイジャン地方を含めた歴史的イラン世界の歴史を叙述する。
先史時代
イラン高原には極めて古い時代から人類の活動があったことがわかっている。 考古学的には約10万年前の旧石器時代中期以降の遺跡[1]が確認されている。
この地域における定住は約1万8千年前から約1万4千年前頃に始まったと考えられている。 この時代の住人達は森林に覆われた山腹の洞窟などを主な住居とし、原始的な土器や剥片石器を用いていた。 動物の骨を用いた骨角器は石器に比べあまり見つかっていない。
イラン高原の気候の変化に伴って、こうした人々の居住地は移動し、やがて大規模な集落も形成されるようになった。 この地域は麦を中心とした農耕が最も早く始まった地域の1つであるといわれている。 紀元前6000年ころには、かなり高度な農耕社会を形成しており、都市の原型となる集住地も確認される。 ザーグロス山中で発掘された紀元前5000年頃のワインの瓶(現在はペンシルベニア大学博物館で展示[2])が知られている他、最も初期の集住地の痕跡としてスィヤールク遺跡(テッペ・スィヤールク)が知られている。 この遺跡からイランの先史時代を知る上で重要な遺物が多数みつかっている。
スィヤールク遺跡の最も初期の層から発見される住居の痕跡は、木の枝で作った粗末な小屋のようなものであったが、間もなく練土を用いた建物が建設されるようになった。 製陶技術も発達し、彩文土器が用いられるようになった他、紡錘車も発見されてり、イラン高原における目覚しい技術革新の後が見られる。 紀元前4千年紀には日干し煉瓦を用いた家が建設されるようになり、漆喰が塗られていたことがわかる。 家の内部には赤い塗料などで装飾が施されていたこともわかっており、文様や動物の図柄を用いた質の良い彩文土器が見られるようになる。 スィヤールク遺跡から発見される煉瓦や土器は、イラン高原に暮らした人々の技術進歩の痕跡を極めて分かりやすく残している。 このことはイラン高原において文化的な断絶が長期間無かった事を示すと思われる。 しかし、彩文土器は技術的にはともかく、図案・造形的な面においては各地の遺跡で統一性が見られず、まとまった一つの政治世界としての姿はまだ曖昧であった。 上記に述べたような特徴はイラン高原の中央部を中心とした地域においての話であり、スサを中心としたであろう南西部では、紀元前3千年紀には中央部と異なり、近隣のメソポタミア文明の影響を強く受けた文化が生まれた。 この地域ではイラン高原の伝統的な彩文土器も使用されなくなった。 現在のトルクメニスタン南部からイラン北東部、アフガニスタン北部にかけての地域では紀元前2千年紀前半に独自の都市文化が発達した。 現在これはオクサス文明などと呼ばれている。 その具体的な姿はまだわかっていないが、東部イランの歴史を考える上で大きな意味を持つ。 また、極めて古い時代とあまり変わらない生活様式が長く続いていた地域もあったと言われている。
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歴史時代の始まり
明らかにメソポタミア地方の文化的影響を強く受けたイラン高原南西部の文化は、やがてイラン地域における最初の文明、エラムの成立を見た。 エラム人は高度な国家機構を整え、イラン世界最初の文字記録を残した。 紀元前2千年紀の末期にはアーリア人(アーリヤ人)、またはインド・イラン人と呼ばれる人々がイラン高原に定着し、イランの歴史の根幹を成す要素が形成された。
エラム
詳細はエラムの項目を参照
イラン世界の歴史時代(文字記録のある時代)はエラム人の文明とともに始まる。 エラムの人々は紀元前3千年紀から紀元前1千年紀半ばまでの間に、現在のイラン・イスラーム共和国のフーゼスターンからファールス地方にかけての領域に幾多の国家を形成した。 エラム人の話した言語は、一般にエラム語と呼ばれる系統不明の言語である。 これは後にイラン世界で主流となるインド・ヨーロッパ系の言語とは異なり、その出自はわかっていない。
エラム人は紀元前3千年紀の終わり頃、クティク・インシュシナク(プズル・インシュシナク)王の元で高度な政治的統一を見た。 彼の勢力範囲はイラン高原南西部のほぼ全域を覆っており、確実な記録に残るものとしてはイラン高原における最初の統一的政治勢力となって周囲に覇を唱えた。 以後、エラムはメソポタミアの諸王朝と度々戦火を交え、1000年以上の長きにわたってエラムはオリエント世界の重要勢力として存続したが、紀元前1千年紀にアッシリアによって主要都市スサが破壊されると、列強としてのエラムの歴史は終わりを告げた。 だが、エラム人の作り上げた政治・社会の仕組みと文化は、後にこの地を支配したハカーマニシュ朝(アケメネス朝)によって継承され、後世のイラン世界に有形無形の影響を残し続けた。
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アーリア人の到来
紀元前2千年紀、中央アジアや南ロシアの草原地帯で遊牧民として生活し、インド・ヨーロッパ系の言語を用いていたアーリア人(アーリヤ人、アールヤ人)と自称し、或いは後世インド・イラン人と呼ばれるようになる人々が、イラン高原やインド亜大陸へと移動した。 アーリア人達の移住ルートは主にコーカサス山脈の山道(コーカサス回廊)を超えるルート、中央アジアからソグディアナ、ホラーサーンに入るルート、そしてアフガニスタン地方を経由してイラン高原に入るルート(カーフィルの道)の三つがあったと言われている。 紀元前1千年紀の始め頃までにはイラン高原全域にアーリア系の人々が定着した。 彼らはそれ以前の住民と異なり、切妻型の屋根を模した石などを載せた塚状の墓を築き、ライオンや山羊、馬などをあしらった新しい彩文土器を用いた。 こうしたアーリア人の到来によって齎されたと思われる変化はスィアールク遺跡などで発見されている。 そしてこの時期にイラン高原は本格的な鉄器時代に入った。 非アーリア系と思われる先住の人々は次第にアーリア人に同化して姿を消していった。 ただし、紀元前10世紀頃にはアーザルバイジャーン地方に近いウルーミーエ湖周辺の地方には、非アーリア系と考えられるマンナエ人(英語版)の王国が一時期勢力を持った。
アーリア人の歴史には9世紀頃から次第に光が当たり始める。 彼らの中でも最も重要な二部族、即ちペルシア人とメディア人が、ほぼ同時に歴史記録に登場し始めるからである。 この記録を残したのは、当時イラン高原西部に勢力を伸張させていたアッシリアであった。 当時ペルシア人やメディア人は、まだ力が弱くしばしばアッシリアに貢納を収めていた。 しかしメディア人達は次第に勢力を伸ばし、やがてイラン高原全域を支配する王国を作り上げた。 これは慣用的にメディア王国と呼ばれ、オリエント世界を支配したアッシリアを滅ぼし、バビロニアやエジプトに並ぶ古代の強国となった。 その後、メディア王国は新たに興ったペルシア人のハカーマニシュ朝に飲み込まれるが、エラム人と並んでハカーマニシュ朝の支配機構の中に入り、ともに中央権力機構を構成する集団となってペルシア人と同化していった。
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ペルシアとイラン
やがて、後世この地域、及び住民を指すことになる言葉、即ちペルシアとイランが歴史に登場した。
かつてエラム人の中心地のひとつであったアンシャン(現在のファールス地方)にはペルシア語でパルスア、パールス、或いはファールスと呼ばれるアーリア人の部族(ペルシア人)が定着した。 このためアンシャンと呼ばれた地方は次第にその部族名で呼ばれるようになった。 これは古典ギリシア語ではペルスィスと呼ばれ、ヨーロッパの諸言語で用いられるペルシアという言葉はこのペルスィスに由来するものである。 この名は紀元前6世紀にこの地から興ったハカーマニシュ朝(アケメネス朝)以来、歴史的にイラン高原に発した諸帝国と住民を指す名前ともなった。
イラン人自身はイラン高原に侵入するしばらく前に分かれた、インド亜大陸に侵入した同族と同様に、「高貴な人々」を意味する「アイルヤ」(アーリア)という自称を長く用いており、サーサーン朝期以降はイラン高原を中心とする地域は「アーリア人の土地」という意味のパルティア語「アールヤーン」に由来するパフラヴィー語の「エーラーン」あるいは「エーラーンシャフル」の名で呼ばれるようになった。 「イーラーン」は、イスラーム時代になってあらわれる、パフラヴィー語の「エーラーン」の近世ペルシア語形である。 紀元前3世紀のギリシアの地理学者エラトステネースも「イラン」の語で言及している。 1935年3月21日、パフラヴィー朝のレザー・シャーは諸外国に対し「イラン」の使用を要請した。 その後イラン人研究者による抗議などがあり1959年にはペルシアおよびイランは併用できるものとされた(詳細はイラン・ペルシア名辞論争を参照、またペルシアの地理についてはイランの地理を参照)。
諸王の王
詳細はペルシア帝国を参照。
紀元前6世紀にファールス地方から興り、当時の文明世界の大部を支配するハカーマニシュ朝(アケメネス朝、アカイメネス朝)が成立した。 この王朝の王であるダーラヤワウ1世(ダレイオス1世)は諸王の王を名乗った。 これはアッシリア王の称号の1つに由来し、ある特定の地域の王ではなく、広大な領域に住む幾多の異民族を支配する王、世界帝国の支配者であることを意識した称号であった。 以後グレコ・マケドニア系のセレウコス朝、セレウコス朝をイランから放逐したパルティア人のアルシャク朝(アルサケス朝)、そしてファールス地方から興ったサーサーン朝に至るまで、諸王の王を名乗る王朝がイラン世界で興亡を繰り返した。
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ハカーマニシュ朝とその時代
詳細は「ハカーマニシュ朝」を参照
メディアに従っていたアンシャン(ファールス)の王クル2世(キュロス2世)は、反乱を起こしてメディア王イシュトゥメグ(アスティアゲス)を破ってイラン高原の支配権を握り、前559年頃にハカーマニシュ朝を成立させた。 クル2世は更にリュディア、次いでバビロニアを征服した。 次のカンブージャ2世(カンビュセス2世)の時代にはエジプトからインダス川流域に至る大帝国が形成された。
ハカーマニシュ朝では広大な領域を統治するために高度な官僚制が整えられ、領土内に20以上の軍管区(サトラペイア)を設定した。 そしてそれぞれに総督(一般にギリシア語に由来するサトラップという名で知られている)が任じられたが、彼らを監視するために王の目、王の耳と呼ばれた監察官が活動した。 また首都としてペルセポリスと呼ばれる都市が築かれたが、実質的な政治の中心はエラムの中心都市スサであった。 また、王は一年の間にスサ、バビロン、エクバタナを移動したと伝えられる。 ハカーマニシュ朝はしばしばペルシア帝国と呼ばれるが、単純に「ペルシア人の国家」というわけではない。 ペルシア人は支配者として振舞ったが各地で征服された現地人の人口は圧倒的であり、またその中には長い歴史・伝統を持つ集団が数多く存在した。 メディア人はしばしばペルシア人と併置して呼ばれ、帝国の中枢部にいて支配者の栄誉を共有していた。 行政組織においては、豊かな経験を持つエラム人が多用されていた。 行政文書や事務書類にエラム語が多用されていることがこれを端的に示す。 バビロニアでは征服以前の官僚達が引き続いて現地の政治行政を担当していたし、リュディアやエジプトでもその統治は現地人の有力者に強く依存していた。 このようにハカーマニシュ朝は長い伝統を持つ征服地の政治組織を温存し、その上に君臨した。 またハカーマニシュ朝時代にはゾロアスター教の教義体系、組織もかなりの程度整えられたと考えられる。 ザラスシュトラ(ゾロアスター)によって開かれたとされるこの宗教はこの時代以降、長い時間をかけてイラン世界の思想的な柱となっていった。
ハカーマニシュ朝は紀元前5世紀初頭のギリシアへの遠征(ペルシア戦争)においては一敗地にまみれ、対外的な拡大は一つの限界に達した。 紀元前5世紀末頃には、相次ぐ分割相続と税負担増のために軍務を担ったペルシア人の封土所有者が没落し、帝国を支える軍の中心は傭兵へと移っていった。 宮廷では慢性的な王位継承の争いが起きており、地方ではペルシア人の有力者やエジプト、リュディアなどの現地勢力による反乱が頻発した。 歴代の王達はしかし、これらの反乱の鎮圧の脅威を抑えてその覇権を維持し続けた。 この時代は王朝衰退の時代と言われているが、近年では再評価する動きもある。 ハカーマニシュ朝の支配は最終的には外敵の侵入に対する敗北によって失われた。 ダーラヤワウ3世(ダレイオス3世)の治世であった紀元前334年にマケドニア王国のアレクサンドロス大王がハカーマニシュ朝に対する遠征を開始した。 ダーラヤワウ3世はこれを迎え撃ったが、イッソスの戦い、次いでガウガメラの戦いで大敗し、最後は部下の裏切りによって殺された(前330年)。 こうしてハカーマニシュ朝は短期間のうちに瓦解し、アレクサンドロスがハカーマニシュ朝の領域と統治機構を継承した。
出会いや
出会い系というものはまったく関連性がありません。
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