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サファヴィー朝
イスファハーンは世界の半分―サファヴィー朝
詳細は「サファヴィー朝」を参照
今日のイランでシーア派的イランの黄金期として想起されるとすれば、それはサファヴィー朝である。 言語的民族的視点からはハカーマニシュ朝やサーサーン朝、文化的視点からはセルジューク朝の黄金期が想起されるが、なおシーア派的視点を加える時、帝国としての「偉大さ」を想起する候補としてはサファヴィー朝よりほかにないからである。 しかし、サファヴィー朝もなお、その起源・性格において前代から引き続くトルコマーン系政権に属していたことは明らかであった。
サファヴィー朝はティムール朝や黒羊朝、白羊朝がイラン高原の覇を競うなかで西北隅アゼルバイジャンのアルダビールから勢力を拡大し、イランを統一した。 サファヴィー朝は、もともとは13世紀半ばに確固とした姿をあらわす在地の神秘主義教団であるサファヴィー教団をなす家であった。 教団内部の争いなどから、アナトリア東北部からアゼルバイジャンにかけてのトルコマーン系遊牧民との交流を拡大し、彼らの支持を集めるためにサファヴィー教団は非常に神秘的なシーア的言説を用いるようになった。 こうしたことからサファヴィー教団は、12のひだ(シーア派12イマームの数)のついた赤い帽子をかぶるトルコマーン系遊牧民、すなわちクズルバシュ(キズィルバーシュ,テュルク語。 赤い頭)を背景に政治勢力化してゆく。
1494年、黒羊朝との戦いで命を落とした兄をついだのが14歳のイスマーイール1世である。 イスマーイールはキズィルバーシュを率いて1501年、黒羊朝を破ってタブリーズに入ってアゼルバイジャンを手中におさめ、さらに1508年、白羊朝を滅ぼしてメソポタミアもその版図に入れた。 イラン世界西部を手中にしたイスマーイールは、東部においてティムール朝を滅ぼしたシャイバーニー朝と激突。 1510年にマルヴ会戦で衝突し敵君主シャイバーニー・ハーンを討ち取り、イラン高原はサファヴィー朝によって統一されることになった。 しかしイラン高原の統一勢力の出現は、アナトリア東部における過激シーア派トルコマーンの存在と叛乱の続発という事態を背景として、西方の大帝国オスマン朝の注意を引いた。 1514年8月23日、スルタン・セリム1世率いるオスマン朝軍とイスマーイール1世率いるサファヴィー朝軍は東部アナトリア・チャルディラーンで会戦、オスマン朝軍の火力を備えた組織的歩兵戦力のまえに、サファヴィー朝キズィルバーシュ騎兵戦力は惨敗した。
このときに至るサファヴィー朝の奉じたシーア派は過激シーア派と称せられるようなものであった。 それはトルコマーン系遊牧民のシャーマニズムを混淆し、さらにイスマーイールを無謬の地上における神の影、救世主とするようなもので、イスラームの教義を逸脱しかねないものであった。 すなわちサファヴィー朝は一種の神秘的熱狂に裏付けられた勢力であったのである。 しかしながら、チャルディラーンの敗北は、こうした性格を後退させ、トルコマーン系遊牧民とタージーク系官僚からなる伝統的な体制へと変容してゆく。 宗教面でもレバノンやバーレーンなどから高名なシーア派法学者を招致し、王朝のシーア派教義の洗練につとめ、法学的精緻さを高めていった。
1524年にイスマーイール1世が没すると、キズィルバーシュ間の勢力争いによる混乱に陥る。 後をついだタフマースプ1世は、その長い治世のはじめの10年こそ傀儡的立場に置かれたが、やがてキズィルバーシュ間の勢力均衡やグルジア系の人々の登用などにより小康状態を導き、度重なるオスマン朝やシャイバーン朝の侵攻を許しつつもよく耐えた。 1576年、タフマースプ1世が没すると、再び母后やこれと結びついたキズィルバーシュ勢力によって国政は混乱した。
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1587年に即位したアッバース1世はキズィルバーシュ勢力間の争いをおさめるとともに、さらに彼らの勢力を削いで実権を掌握、中興の英祖として名高く「大帝」を冠して呼ばれる。
トルコマーン系政権の混乱は、遊牧部族民の半独立傾向と相互の争いから生ずるものであるが、それはサファヴィー朝も例外ではなかった。 武力を部族民に依存し、中央直轄の軍事力を欠きやすいトルコマーン=タージーク体制の特徴ともいえる。 アッバースは、カフカズ出身(特にグルジア)奴隷からなるグラーム軍団、各部族から引き抜いて編成したコルチ軍団の両騎兵、さらに銃砲兵をペルシア系住民によって編成し、常備直轄兵化、軍事力のキズィルバーシュへの依存を避けた。 この改革はサファヴィー朝軍制を一変させるとともに、財政的裏付けのために王領地の増加、直轄化などがおこなわれ、権力構造を著しく変容させた。 こうしたことから対外的にも軍事力の組織的運用が可能となり、東にシャイバーン朝からホラーサーン、西にオスマン朝からバグダードを奪還した。
1598年、アッバースは都を北西部カズヴィーンから中部イスファハーンへと遷した。 これまでアゼルバイジャンあるいはホラーサーン方面に置かれた首都がイラン高原中央のイスファハーンへと遷されたことは、アッバースによる権力体制の変革を示すものであると同時に、ペルシア湾の重要性の増加を示すものでもあった。 アッバース1世の時代、貨幣経済が著しく発展し、絹貿易などによる好景気に沸いた。 ムガル朝のもとで安定するインドとの交易も進展し、ホルムズを拠点としたポルトガルをはじめ大航海時代に入ったヨーロッパ諸勢力は競ってアッバースの宮廷に使節を派遣した。 アッバースは街道・港湾の整備や治安維持によって交易条件を整えるとともに、保護貿易的姿勢に出て莫大な利益を獲得。 さらに1622年にはホルムズをポルトガルから奪って、バンダレ・アッバースを中心とする貿易体制を確立した。 文化的にもレザー・アッバースィーの細密画などの写本芸術、あるいはムッラー・サドラーのシーア派哲学などが発達。 イランの実質的なシーア化の進展はこの時代のことであった。 アッバース1世の時代は、まさにサファヴィー朝の黄金時代であり、40万の人口を擁する新都イスファハーンは「世界の半分」と謳われ、今日世界遺産としてその姿をとどめている。 アッバースが没したのは1629年のことであった。
アッバース没後も1660年代ころまでのサフィー1世、アッバース2世の時代ころまではサファヴィー朝はそれなりの安定を保った。 1639年にはガスレ・シーリーン条約によってオスマン朝との間の国境線を確定、長く続いた対オスマン戦争に終止符が打たれている。 しかし、その後は、宮廷におけるキズィルバーシュ、ペルシア系文官、カフカズ系、さらにハラムのからんだ勢力争いで中央は混乱に陥り、給料の遅配などで叛乱が続発、地方の治安は極度に悪化した。 ペルシア湾では海賊が跳梁し、インド産品に優位性を奪われ交易の利益も著しく減少した。 このような状況下で物価は乱高下し、サファヴィー朝経済は壊滅状態に陥ってゆく。 18世紀に入ることには、アッバース1世以降続けられた地方軍権の削減と首都への過度の兵力集中によって辺境・地方の防衛体制は脆弱化して混乱状態に拍車をかけた。 東方から進出したアフガーン民族は、1722年、あっさりと首都イスファハーンに入城し、統一政権としてのサファヴィー朝は滅亡したのである。
近代イランへの道―ガージャール朝
詳細は「ガージャール朝」を参照
17世紀までにはヨーロッパ列強、すなわちポルトガル、イギリス、ロシア、フランスがこの地域に地歩を確立し始めていた。 その後、イランはトルコマーンチャーイ条約、ゴレスターン条約などの諸条約によって上記諸国へと領土を割譲し、縮小してゆくことになる。
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現代イランの光と蔭
立憲革命とパフラヴィー朝の成立
詳細は「イラン立憲革命」、「パフラヴィー朝」、「イラン進駐 (1941年)」をそれぞれ参照
イラン近代史はいまだに政権を握るシャーに対して闘った1905年のイラン立憲革命、立憲君主制への移行を示す1906年の(暫定)憲法発布、1908年の石油の発見にはじまる。 第一議会(マジュリス)は1906年10月1日の招集である。 また、 地域の鍵となる石油の発見は英国によるものであった(詳細はウィリアム・ノックス・ダーシー、アングロ・イラニアン石油会社を参照)。 地域の支配権をめぐるイギリスとロシアの争いは1907年の英露協商によって勢力圏分割で合意に達した。 外国の支配と専制に反対し続けたギーラーンにおける立憲主義運動も1921年、パフラヴィー朝への王朝交替とともに終焉している。
第一次世界大戦中、イランはイギリス軍およびロシア軍に占領されたが、基本的には中立を維持している。 1919年、イギリスはイランに保護領を設定しようとするが、1921年のソヴィエト連邦軍の撤退で断念。 同年イラン・ガザーク(コサック)旅団の軍人レザー・ハーンがクーデタをおこし、ついで1925年、皇帝に即位してガージャール朝にかわりパフラヴィー朝を開いた。 レザー・シャーの統治は英国の秘密裏の援助によって開始されたが、やがて英国勢力の浸透を防ぎつつイランの開発を進める政策に転じ、約16年にわたった。
レザー・シャーの統治下、政治の非宗教化と部族および地方権力を掣肘し中央集権化がおこなわれてイランの近代化がはじまる。
第二次世界大戦ではイランはソヴィエト連邦へのレンドリース法に基づく物資供給路として不可欠の位置を占めていた。 1941年8月、イラクから進出したイギリス軍および英領インド軍、北から南下したソ連軍がイランを占領。 9月にはイギリスによってレザー・シャーが強制的に退位させられ、その子モハンマド・レザー・シャーが後を継いだ(→イラン進駐参照)。 モハンマド・レザー・シャーはこの後、1979年まで皇帝としてイランを支配する。
1943年のテヘラン会談後のテヘラン宣言ではイランの戦後の独立および国境の維持が保障された。 しかし、終戦を迎てもイラン北西部に駐留するソ連軍は撤退を拒否、1945年後半にはイラン領アゼルバイジャンおよびクルディスタン北部における親ソヴィエト民族主義・分離主義者による傀儡政権アゼルバイジャン人民共和国およびクルディスターン人民共和国の設立を援助した。
ソヴィエト軍は1946年5月、石油利権の確約を得てようやく本来のイラン領から撤退、北部のソヴィエト政権は直ちに鎮圧され、利権も取り消された。
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イラン皇帝とアメリカ合衆国
アルノー・ド=ボルシュグラーヴは言う。
米国の諸政権は、1953年のCIAの主導によるモハンマド・モサッデグ政権の打倒と短期間ローマ亡命中のモハンマド・レザー・シャー復権の事件に始まり、1978年にシャーを裏切るまで、イランへの直接の内政干渉を行った[3]。
占領後、当初は立憲君主制国家となる望みがあった。 若い新皇帝(シャー)、モハンマド・レザーは議会に大きな権力を委ね、君臨するに留まっていたのである。 数回の選挙が流動的な状況下でおこなわれたが、これは多くの選挙違反の伴うものであった。 議会は慢性的な不安定状態に陥り、1947年から1951年まで6人もの首相が入れ替わりに政権を担うこととなったのである。
1951年、民族主義者モハンマド・モサッデグが英国の所有する石油会社の国有化を主張して、議会によって首相に選ばれた。 これがアーバーダーン危機の始まりである。 英国の経済制裁などによる圧力はイランに多大な困難をもたらしたが、国有化政策は続行された。 1952年、モサッデグは辞任を強制されたが、選挙での圧勝により再選、ひるがえってシャーに亡命を余儀なくさせた。 モサッデグは共和国を宣言するが、数日後の8月19日、アジャックス作戦として知られるCIAと合衆国政府の策謀によってシャーは帰国して復位、モサッデグは職を追われて逮捕され、新任の首相はシャーによって任命された。
シャーはこの事件における米国の支持への見返りとして、1954年、英40%、米40%、仏6%、蘭14%の割合でイラン石油利権を分割する国際コンソーシアムの操業を今後25年にわたって認める契約に調印した。 つまり石油の支配権も完全な利益もイランにはもたらされないことになったのである。 1950年代末から1960年代には安定が回復した。 1957年には16年にわたる戒厳令が解除され、イランはバグダード条約へ加盟し、米国から軍事援助、経済援助を受けて西側陣営にさらに接近する。 政府は近代化政策を広範に実施、特に準封建的な土地制度を改革した。
しかしながら改革により経済状態の劇的な改善はなく、自由主義的西欧的政策はイスラーム的な宗教集団、政治集団を政権から遠ざけてゆく結果となる。 1960年代半ば以降はモジャーヘディーネ・ハルク(MEK)などの組織の出現にともなって、政情は不安定化してゆく。 1961年、シャーの白色革命として有名な、一連の経済、社会、行政改革を開始した。 政策の核心は農地改革にあった。 近代化と経済成長は空前の勢いで進行、世界第3位の膨大な石油埋蔵量がこれを後押しした。
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1965年の首相ハサン・アリー・マンスールの暗殺事件以降、国家情報安全機関 (イラン)(SAVAK)の活動が活発化。
この時期、13,000人から13,500人にのぼる人々がSAVAKによって殺害され、数千人が逮捕・拷問されたと見積もられている。 ルーホッラー・ホメイニー(1964年に追放)の指導するイスラーム勢力は反対活動を大々的に繰り広げるようになった。
国際関係においては1937年の協定でイラクに帰属するとされたシャッタルアラブ川の水路領有権をめぐる争いでイラクとの関係が急速に悪化している。 1969年4月中の数回の衝突ののちイランは協定を破棄、再交渉を要求。 イランは防衛費に多大な予算をつぎ込み1970年代初頭までには域内第一の軍事大国となっていた。 これを背景に1971年11月、イラン軍はペルシア湾口の3島を占領、イラクは報復として数千人のイラン人を追放した。 この問題は1975年3月6日のアルジェ合意でようやく解決している。
1973年半ば、シャーは石油工業へのイランの管理権を回復した。 1973年10月の第四次中東戦争にあたっては、西側およびイスラエルに対する石油禁輸措置には加わらず、原油価格上昇の好機をとらえて莫大な石油収入を得て、これを近代化と国防費に回した。 1970年代初め、モジャーヘディーネ・ハルクは体制の弱体化、外国の影響力の排除を目的に、軍の契約にかかわるテヘラン駐在の米軍人、民間人の殺害事件を起こしている。
白色革命以降の経済成長による利益は、しかしながら非常に小さな集団に集中し、大多数の人々に恩恵がもたらされることはなかった。 1970年代後半にはいると、宗教勢力に率いられた広範囲な反対運動が起こる。 いまやシャーの統治への政治的・宗教的反感、特にSAVAKへの嫌悪が高まっていた。 1978年9月、戒厳令が全国主要都市に布告された(黒い金曜日を参照)が、シャーは権力基盤の崩壊を認識。 翌1979年1月16日にシャーはイランから亡命し、帝政は崩壊した。
イスラーム革命
詳細は「イラン革命」を参照
数ヵ月におよぶシャーの統治への大衆抗議ののち、1979年1月16日、モハンマド・レザー・シャーはイランを去ることを余儀なくされた。 短期間の次期政権と政策構想をめぐる攻防では、アーヤトッラー・ホメイニー指導のもとイスラーム国家への移行を支持する連合勢力が勝利した。 1979年2月1日、ホメイニーがフランスから帰国(ホメイニーは追放後の15年をイラク、トルコ、フランスで過ごした)し、2月11日、最高指導者に就いた。
新政府の政策は非常に保守的で、産業の国有化、法律・文化のイスラーム化を断行した。 西洋的文化は禁止され、親西側エリートは速やかにシャー同様に亡命した。 宗教内の対立派閥の衝突があり、また厳しい抑圧は急速に常態と化した。
セフレという言葉は関係なし。
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