イスラーム共和国

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    1979年11月4日、アメリカ大使館人質事件が起こった。
    これはモジャーヘディーネ・ハルクの支持を背景として、好戦的なイラン人学生がテヘランのアメリカ大使館を占拠・人質を監禁したもので、1981年1月20日まで続く(詳細はイーグルクロー作戦を参照)。
    カーター政権は国交を断絶、1980年4月7日には経済制裁を発動、同月末には救出作戦に踏み切った。
    しかしこの救出作戦ではヘリコプターに技術的問題が生じたこと、これに伴う空中衝突で8人の米兵を失ったことで4月25日に作戦中止が指令されている。
    国際司法裁判所は5月24日に人質解放を要求、最終的にロナルド・レーガン大統領就任の日、イラン側の要求をほぼ受け入れて事件は解決した。
    1980年9月22日、イラクがイランに侵攻した。
    イラン・イラク戦争の勃発である。
    アメリカ政府はイランの孤立化を試み、米国およびその同盟国は勢力均衡のためイラクに武器と技術を供与した。
    皮肉にもその裏でレーガン政権高官は秘密裏にイランへ武器、補充部品の売却を行っていた(イラン・コントラ事件)。
    この戦争は1988年、国連安全保障理事会決議598号を受け入れてようやく終結、8年に及ぶ戦争でイランだけで3500億米ドルに達する損害を被った。
    1979年以降90年代まで(また小規模には現在まで[4])、クルド人勢力(民族主義者および共産主義者)と政府のあいだで激しい戦闘が起こっている。
    これとイラン・イラク戦争の影響により、イラン領クルディスターンの大部分が無政府状態に陥ることもあった[5]。
    1981年、モジャーヘディーネ・ハルクによるイスラーム共和党本部および首相府爆破事件が連続して起こった。
    これら事件では当時の同党党首アーヤトッラー・モハンマド・ベヘシュティー、大統領モハンマド・アリー・ラジャーイー、首相モハンマド・ジャヴァード・バーホナルなど70人の政府高官が殺害されている。
    1989年6月3日、ホメイニーが死去。
    専門家会議(高位ウラマーからなる)はアリー・ハーメネイー大統領を後継最高指導者に選出、スムーズな権力移行を内外に示した。
    1991年の湾岸戦争にあたってはイランは中立を維持したもののアメリカに批判的で、イラク航空機および難民のイラン入国を許している。


    イスラーム共和国2

    ハーシェミー・ラフサンジャーニー大統領は一定の多数票を占め1993年に再選されたが、西側の観察では投票率の低下をもって悪化する経済への失望感の表れとの解釈も出た。
    1997年、ラフサンジャーニーをついで、穏健なモハンマド・ハータミーが大統領となった。
    これは未だに保守的なウラマーと改革と穏やかな自由化を求める行政府との亀裂をもたらした。
    1999年7月にはこの亀裂が頂点に達し、テヘランの街頭では大規模な反政府デモが起こっている。
    騒動は警察および政府支持の民兵によって解散されるまで1週間にわたって続いた。
    ハータミー大統領は2001年6月に再選されたものの、その政策はウラマーの構成する監督者評議会によってたびたび妨害されている。
    ハータミーの再選後、イラン政府内の保守派は自由主義的新聞の発刊停止処分、改革派候補の立候補不適格判断などを通じて改革派の活動を徐々に圧迫していった。
    異議申し立てへの取り締まりは、ハータミーの改革への失望感と相まって、若年層のあいだに政治的アパシーを醸成。
    2005年の大統領選挙では、監督者評議会によって1,000人以上の立候補者が不適格とされたうえで、非常に保守的なテヘラン市長マフムード・アフマディーネジャードが選出された。
    また2005年8月9日には最高指導者アーヤトッラー・アリー・ハーメネイーが核兵器の製造・配備・使用を禁じたファトワー(宗教令)を発出。
    当該文書はウィーンでの国際原子力機関(IAEA)会議の席上で公式声明として公開されている[6]。
    しかし、2006年に入り、核の使用を容認する新たなファトワが宣言された。
    2009年6月12日に大統領選挙が行われ、大差で現職のアフマディーネジャードが再選されたが、敗れた改革派候補ミール・ホセイン・ムーサヴィーは不正選挙を主張、6月13日から市民の抗議デモや暴動が連日発生している。
    最高指導者アリー・ハーメネイーは「選挙に不正は無かった」と述べ、抗議デモ中止を要求したが、それでも市民の怒りは収まらず、暴動は全土に広がっている。
    政権側は武力鎮圧する構えを見せているが、治安要員が私服に着替えて抗議デモに参加するなど内部での瓦解が始まっているとされ、現体制は最大の危機に立たされている。


    エラム
    エラム
    エラム(Elam)は古代オリエントで栄えた国家、または地方の名。
    紀元前4000年紀半ばから紀元前6世紀までの間、幾多の古代世界の列強国を出現させた。
    エラムと呼ばれたのは、メソポタミアの東、現代のフーゼスターンなどを含むイラン高原南西部のザグロス山脈沿いの地域である。
    エラム人自身は自らをハタミ、又はハルタミ(Hatami、Haltami)と呼び、土地を指す際にはハルタムティ(Haltamti、後に訛ってアタムティAtamti)と呼んだ。
    シュメール語のエラムはこれの転訛したものである。
    メソポタミアという古代文明世界の中心地に隣接したために、その文化的影響を強く受けたが、砂漠や湿地帯によって交通が困難であったために、政治的にはイラン高原地帯との関わりが深かった。
    エラム人は系統不明の言語エラム語を話す人々であり、メソポタミアで楔形文字が発明されてから程なく、エラムでも原エラム文字と呼ばれる絵文字が発明された。
    この原エラム文字で書かれた文章は現在のアフガニスタンに近い地域からも見つかっており、エラム文化はイラン高原各地に影響を与えていたと考えられる。
    メソポタミアの王朝はたびたびエラムに侵入して、これを支配下に置いた。
    一方でエラム人もメソポタミアへの介入を繰り返し、バビロニアの王朝をいくつも滅ぼしている。
    紀元前2000年紀に入ると、エラム人も楔形文字を使って記録を残すようになり、多くの情報がわかる。
    エラムの歴史で中心的役割を果たした都市はアンシャン、そしてスサである。
    スサを中心とした地方はギリシア人たちにはスシアナとよばれた。
    エラム人の残した文化や政治制度は、メディアやペルシアに大きな影響を及ぼした。
    エラム人は、オリエントのほかの地域とは異なる独特の相続制度を持っていた。
    即ち、王位は親子ではなく、まず兄弟によって相続されていくのである。
    この相続制度はかなり後の時代にまで継承され、異民族の侵入によっても基本的に変化しなかった。
       

    エラムの歴史
    エラムの歴史
    エラムの歴史は他のオリエントの地域と同じく、言語(文字)史料の分類に基づいて区分されている。
    原エラム時代(プロト・エラム時代) 主に紀元前3200年頃から、紀元前2700年頃までを指す。
    この時代既に原エラム文字による文字記録が存在するが、原エラム文字の解読が進んでいないため、基本的には考古学情報に頼って再考される。
    既にスサなどの都市が形成されていた。
    古エラム時代(古王国時代) 原エラム時代とまとめて扱われる事もある。
    紀元前2700年頃のアワン王朝の成立から紀元前1600年頃のエパルティ(スッカル・マフ)王朝の滅亡まで頃とされる。
    この時代エラム地方はアッカド帝国やウル第3王朝の攻撃を受けて支配下に入っていたが、最後には逆にウルに侵攻してこれを破壊、略奪し、ウル第3王朝を滅亡させるに到った。
    文字記録が多く残され始める時代であるが、その後半期は衰退の時代であった。
    中エラム時代 紀元前1600年頃のイゲ・ハルキ朝の成立から紀元前1100年頃の、イシン第2王朝のネブカドネザル1世によるエラム侵攻までの時代である。
    なお古エラム時代のとの境目には諸説ある。
    古エラム時代末期の衰退期から再びエラムが列強として登場する時代であり、バビロニア文化の影響を強くうけた時代である。
    カッシート朝(バビロン第3王朝)を滅ぼしたが、しかし、最後はネブカドネザル1世の侵攻で大打撃を被り、再び衰退した。
    新エラム時代 紀元前1100年のネブカドネザル1世の侵攻から、紀元前539年にアケメネス朝の支配下に入るまでの時代であり、研究においては更に3期に細分される。
    アッシリアとバビロニアの争いにバビロニアを助ける形でたびたび介入したが、最後はアッシリア王アッシュールバニパルの攻撃を受けてスサを破壊され、大国としてのエラムの歴史は終わりを告げた。
    更にその後、アケメネス朝の支配下に入り、以後エラム人による国家が成立することはなくなった。

    不倫
    古エラム時代
    この時代から、メソポタミア側の歴史史料にエラムについての情報が載り始める。
    しかしその記述は多分に伝説的なものであり、編年を明らかにするのは不可能である。
    シュメールの伝説には、キシュの王エンメバラゲシがエラムを征服し戦利品を獲得したというものがある。
    また、ウルクの王エンメルカルはエラムに降伏を迫るためにエラムの領主エンスクシュシルアンナへ使者を送り、エラムを服属させたというものもある。
    また、古エラム時代のアワン朝の王はシュメールを3代に渡って支配したと伝えられる。
    だがこれらの説話にどの程度史実が含まれているのかは全くわからない。
    アワン朝の後にはハマズィ朝が再びシュメールを支配したという。
    この他シュメールの都市国家の中にはその初期にエラムの支配を受けたという伝説を持ったものが少なくない。
    具体的な政治史の復元は困難ながら、シュメール時代の初期からエラム人がメソポタミアと接触を持っていたことは確実である。
    飛躍的に情報が増えるのはエラムに侵攻してこれを支配したアッカド帝国と、その後のウル第3王朝時代からである。
    アワン朝(シュメールを支配したという王朝ど同一であるかは不明)最後の王クティク・インシュシナクはウル第3王朝の創設者ウル・ナンムと同時代人であったと考えられる。
    彼はスサとアンシャンを征服して、イラン高原における初の統一的な政治勢力を形成した。
    しかしアワン朝は間もなくウル第3王朝のシュルギ王の攻撃を受けて崩壊した。
    アワン朝と入れ替わるようにエラム史に登場したシュマシュキ朝は当初はウル第3王朝や異民族の間断無い攻撃に曝され弱小であったが、やがてウル第3王朝の弱体化に乗じて勢力を拡大し、ウル第3王朝は婚姻政策によってシュマシュキ朝を懐柔しようとするようになった。
    だがシュマシュキ朝が、全エラムを統合していたのかどうかはよくわかっていない。
    紀元前2004年シュマシュキ朝の6代目の王キンダットゥはウルを攻撃し、ウル第3王朝を滅ぼした。
    だが、既にウル第3王朝より離脱し、その実質的後継者となっていたイシュビ・エッラのイシン第1王朝によって破られ、ウルを奪回された。
    その後シュマシュキ朝はメソポタミア各地に成立したアムル系王朝と対立した。
    特にラルサなど南部メソポタミアの王朝はスサなどの支配権を再び確保しようとしてエラムと戦闘を続けた。
    紀元前19世紀頃にはシュマシュキ朝にかわってエパルティ朝がエラムの支配権を握った。
    この王朝はエラムの主要部分を含んでいたと考えられるが、3代目の王以降スッカル・マフ(シュメール語で大総督の意)という称号を用いており、メソポタミアの王朝と何らかの宗属関係があったかもしれない。
    また、ラルサではスサ北部の別のエラム人国家の王クドゥル・マブクがラルサ王ツィリ・アダドを追放し、「アムルの父」を名乗ってその支配権を獲得するなどしていた。
    彼とその後継者はバビロン第1王朝のハンムラビ王の時代まで、たびたびバビロンと戦火を交えている。
    だが、こうしたエラム人のバビロニアでの影響力は長続きしなかった。
    その後インド・ヨーロッパ系の集団や、カッシート人、フルリ人の移動などに伴う混乱によってか、エラムは混乱に陥ったらしく記録は少ない。
    だが、この時代にエラム各地にフルリ人が移住しており、エラムの諸都市にはフルリ人の王を頂く都市が多数出た。
    不倫は絶対に存在しません。


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